D カント

カント(Immanuel Kant 1724-1804)
 カントは、北ドイツの地方都市に生まれ、そこからほとんど出ることなく、一生を過ごした。彼の家庭は、貧しい馬具職人をしており、ルター派の中でも保守的な敬虔派の深い信仰を持っていた。そして、牧師の援助によって進学し、同地の大学でニュートン物理学やライプニッツ・ヴォルフ哲学を学び、私講師(無給講師)を経て、四十代半ばでようやく正教授となり、十数年の準備の後、『純粋理性批判』を著して、思想界に大きな影響を巻起こすこととなった。その後も、次々と力作を発表し、
また、大学の総長をつとめ、平穏な一生を終えた。
 彼は、子供のころから虚弱な体質であり、健康に関しては異様に神経質で、時計のように規則正しい生活と、みずからに課した、さまざまのおかしな戒律を守り、健康維持に努めた。たとえば、口での呼吸はリウマチの原因であるとかたく信じ、また、発汗は有害であると考え、食事も昼に一回しかとらなかった。彼は、自分が病気ではないかと心配する精神病であったとも言われる。その思想の大胆さにもかかわらず、彼自身の生活は、このようにまったく〈小市民〉的なものであった。
 彼の哲学上における意義は非常に大きいと言われるが、しかし、実際のところ、彼自身が考えていたほど独創的な発想を打出したわけでもなく、むしろ、デカルト来の近代哲学において出てきたさまざまな概念装置のほとんどすべてをスコラ的に詳細に整理しなおし、みずからの体系の中に取込んで、位置付けたことにあると言える。その構成の仕方に関しては、まことに天才的である。ただし、この体系というのも、全体として清書されたものではなく、各部分の論文の寄せ集めとして編集されたものと思われ、場所によって概念上のくいちがいをしばしば生じているのであるが、このような場合、これを「この点に関しては難しい問題を含む」と言って、ありがたがっている方が学者としてカッコがいいことになっている。
 いずれにしても、近代哲学のすべてがカントに流れ込み、また、ここから近代、現代哲学のすべてが発しているといっても過言ではない。このような意味で、カント知らずに哲学を論ずる資格はないとまで言われる。
 ついでながら、カント哲学は《ユークリッド幾何学》と《ニュートン力学》に絶対の信頼をおいて構成されている。もちろん、今日、《非ユークリッド幾何学》や《量子力学》などによって、それらの体系は打破されている。このため、半可知の人々がこのことをもってカント哲学を時代遅れのものと蔑むことがあるが、カントが論じたのは、《コペルニクス的転回》とカント自身が言うように、客体側の事実ではなく、あくまで、主観側の認識の事実である。実際、我々はいまだに充分に《ユークリッド幾何学》や《ニュートン力学》的に世界を認識しているのであり、このような意味で批判することは的はずれであると言えよう。

a)『純粋理性批判』
【コペルニクス的転回 kopernikanische Wendung】
 (第2版序文)
 カントが自分の哲学的立場を表すのに用いた語。すなわち、我々はこれまで、[我々の認識はすべて対象に従って規定されなければならない]と考えていたが、《数学》が、概念に従って自ら対象の中へ入れたものから産出し、《自然科学》が理性の原理に従って自然を問い質すように、[対象が我々の認識に従って規定されなければならない]と想定したならば、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されないか、と、彼は試みるのである。
 つまり、認識とは、あるがままを知ることではなく、主観の方が主体的に知覚を構成することである、と考えるのである。[〈経験〉は〈合理〉的に構成される、そして、それゆえ、知識は〈経験〉的であり、かつ、〈合理〉的である]というこの発想によって、彼は、対立を深めていった《経験論》と《合理論》とを二つながらに再び一つの体系に吸収することに成功した。

【純粋 rein / 経験的 empirisch】
 (緒言Tなど)
 すべての我々の認識が経験をもって起こるにしても、だからといって、認識はすべてが〈経験〉から生じるわけけではない。つまり、経験的認識すら、我々が印象をつうじて受取るものと、我々独自の認識能力が自分自身から出し与えたものとの合成物なのである。
 そこで、[〈経験〉、すなわち、感官の印象に依存しない認識]があるなら、それは〈アプリオリな認識〉であり、[その中でも、経験的なものがまったく混在しないようなもの]を〈純粋〉と言う。 これに対して、通常の、[アポステリオリにのみ、つまり、〈経験〉をつうじてのみ可能であるような認識]を〈経験的〉と言う。
 たとえば、人魚のようなものの認識は、〈経験的〉ではありえず、むしろ、経験なしにアプリオリに想像されるが、しかし、〈純粋〉ではなく、しょせんは人と魚の〈経験的〉印象が混在している。しかし、たとえば、空間は、いっさいの〈経験的〉印象にも依存せず、〈純粋〉である。
 つまり、認識は〈アプリオリで純粋〉〈アプリオリだが非純粋〉〈経験的〉の3つに分類ことができる。

【アプリオリ a piriori/アポステリオリ a posuteriori】
 (緒言Uなど)
 「より先から」「より後から」というラテン語。スコラにおいては、因果関係または主属関係に関して、前者は[その原因や主体から]、後者は[その結果や属性から]という意味であった。しかし、カントはこれを〈経験〉との相対的前後関係として術語づけた。
 すなわち、〈アプリオリな認識〉とは、[〈経験〉に依存しない認識]のことであり、これに対して、〈アポステリオリな認識〉とは、[〈経験〉に依存する認識]のことである。
 また、〈アプリオリな判断〉とは、[〈必然性〉、すなわち、[そうにほかならないこと]を伴って考えられる命題]のことであり、[さらに、それ自身がまた必然的命題だけから導出されている命題]、もしくは、[〈普遍性〉、すなわち、[例外が可能とすら考えられないこと]を伴って考えられる命題]は〈ひたすらアプリオリな判断〉である。つまり、〈必然性〉や〈普遍性〉が、〈ひたすらアプリオリな判断〉の確かな目印であり、両性質はまた分離し難く相互に属している。
 たとえば、「三角形のある2角の和が120゚である」と知っているならば、実際に測定を〈経験〉しなくても、「残りの角は 60゚である」と〈アプリオリな判断〉がされる。だが、これは、「三角形のある2角の和が120゚である」という非必然的命題から導出されており、また、他の2角の和が120゚ではない場合の例をいくらでも考えることができるがゆえに、〈ひたすらアプリオリな判断〉ではない。これに対し、たとえば、「三角形の内角の総和は180゚である」という命題は、平行線の公理その他の必然的命題だけから導出されており、また、例外が可能とすら考えられないがゆえに、〈ひたすらアプリオリ〉である。
 つまり、〈認識〉の〈アプリオリで純粋〉〈アプリオリだが非純粋〉〈経験的〉の3分類に対応して、〈判断〉も〈ひたすらアプリオリ〉〈(アポステリオリな)アプリオリ〉〈アポステリオリ〉の3つに分類できる。
 本来ならば、〈認識〉は〈観念〉に関して、〈判断〉は〈命題〉に関して区別して語られるべきものであるが、カントの場合、しばしば混同して論じられる。しかし、これは混乱ではなく、カントが〈命題〉を[主語観念からの述語観念の導出・収納]と考え、また、〈命題〉の〈判断〉を[〈命題〉の純粋悟性観念への包摂]と考えていたことによると思われる。

【分析 analytisches /綜合 synthetisches 判断 Urteil】
 (緒言Wなど)
 〈判断〉は、主語と述語との関係によって、〈分析判断〉と〈綜合判断〉との2つに分けられる。 すなわち、〈分析判断〉とは、[述語がすでに主語概念の内に含まれているもの]であり、主語概念の内容を明らかにするがゆえに「解明判断」とも言う。
 また、〈綜合判断〉とは、[述語がいまだ主語の概念の内に含まれてはいなかったもの]であり、主語概念に新たな観念を付加えるがゆえに「拡張判断」とも言う。
 たとえば、「物体はすべて延長を持つ」という判断は前者であり、「物体はすべて重さを持つ」という判断は後者である。
 なお、経験的判断は本性上すべて〈綜合的〉である。
 しかし、経験的にいったん〈総合〉された判断は、次からは、アプリオリに〈分析〉できるのであり、それゆえ、両判断は、命題そのものの分類ではなく、ある経験の際に、その命題が、既知もしくはアプリオリに導出できるか、それともまったくの未知か、という区別であると考えるべきだろう。
 いずれにしても、カントは、〈命題〉を、[主語概念からの述語概念の導出]、もしくは、[主語概念への述語概念の収納]と考えたのであり、〈判断〉においては、前者の〈命題〉ならば〈分析〉に、後者の〈命題〉ならば〈総合〉になる、ということである。

【物自体 Ding an sich】
 認識主観による対象の構成以前に実在し、感性を触発して表象を与える、現象の背後存在者。〈超越的客体〉、〈知象〉とも言う。これは、経験の対象としての物、すなわち、感性的直観の対象である印象としての物、〈内在的客体〉、〈現象〉と対比される。
 我々の認識対象はこのようにすべて主観によってすでに構成されたものであるから、〈物自体〉がどのようであるかは直接には認識不可能であるが、しかし、その実在は矛盾なく思惟可能であり、また、〈現象〉の根拠としてこの実在が要請される。

【現象 Pha゙nomenon / 知象 Noumenon】
 〈知象〉とは、感官の対象としてではなく、〈物自体〉として(ひたすら純粋悟性を通じて)考えられるべき客体である。
 ところが、我々は、問題的には〈現象〉より遠くへ達する〈悟性〉があるが、しかし、我々に感性の外の対象が与え、〈悟性〉が〈感性〉を越えて断言的にもたらしうるような〈知性的直観〉などない。それゆえ、〈知象〉の概念は、たんに〈感性〉の僭越を制限するための限界概念であり、消極的使用によるのみである。つまり、〈知象〉を、我々の感性的直観の対象ではない限りの物と解するべきであり、非感性的直観、すなわち、〈知性的直観〉の対象と解してはならない。

【超越的 transzendental】
 「先験的」とも訳される。「越えて- 登る」、すなわち、「超越する」という意味のラテン語であり、〈トランスケンデンティア〉はその現在分詞の名詞形、つまり、「超越しているもの」のこと。これは、中世スコラにおいては、一つには、[アリストテレスのカテゴリア(述語)の下に包摂されず、むしろ、それらすべてに述語する概念、すなわち、〈存在〉〈真〉〈善〉〈一つ〉〈もの〉〈他〉の6概念のこと]であり、また、もう一つには、[現象するものとは独立の現象させるもの、すなわち、〈神〉や〈イデア〉のこと]であり、その反対は〈内在 immanentia〉である。 
 カントは、個別の認識内容に対して、[すべての認識に共通な認識の仕方]を〈包括的〉とした。
つまり、個別的〈内容〉に対する普遍的〈形式〉である。そして、このような〈包括的〉な認識形式は、必然性、普遍性を持つゆえに、〈ひたすらアプリオリ〉である、と考え、個別的〈内容〉を包摂する普遍的〈形式〉であるさまざまな〈純粋概念〉を求め、これを体系的に整理しようと試みたのである。
 また、この語は、[〈物自体〉が主観には内在せず、超越している]という意味でも用いられ、この場合には、〈超越的〉と言うべきであろう。さらにまた、[ある能力がその能力の限界を越えて働いている]という意味でも用いられ、この場合には、〈越権的〉と言うべきであろう。カントはこれらの区別を厳密に論じている箇所もあるが、全体としてはこの使い分けはかなりいいかげんである。

【感性 Sinnlichkeit / 悟性 Verstand】
 人間の認識能力は、基本的に、〈感性〉と、〈悟性〉に分けられる。
 〈感性〉とは、対象に触発されて、表象を受取る〈受容性 Rezeptivita゙t〉の能力であり、〈悟性〉とは、表象を自ら産み出し、概念によって思惟する〈自発性 Spontaneita゙t〉の能力である。
 〈感性〉がなければ対象は与えられず、〈悟性〉がなければ対象は思惟されない。〈直観〉なき〈概念〉は空虚であり、〈概念〉なき〈直観〉は盲目である。したがって、〈感性〉も〈悟性〉も共に認識には必要不可欠の能力である。また、〈直観〉はあくまで〈感性〉によるべきであり、〈悟性〉だけによる〈知性的直観〉などない。
 しかし、おそらく、この2つの認識の根幹は、我々には知られていないが、共通的の根元から発生したものであろう。

【純粋直観形式】
 〈時空間〉のこと。すべての現象の包括的形式でもある。というのは、時空間は、経験的ではないがゆえに〈純粋〉であり、存在しないと考えることもできないがゆえに〈必然的〉であり、かつまた、唯一であるがゆえに〈普遍的〉であり、それゆえ、〈ひたすらアプリオリ〉なのであるが、さらに、他のすべての印象を含むがゆえに〈包括的〉である。また、これらは、経験的には実在的だが、あくまで、超越的には観念的であるにすぎない。さらにまた、〈空間〉が外感の形式であるのに対して、〈時間〉は内感の形式である。

【純粋悟性概念】
 〈悟性〉とは、[〈概念〉によって論証的に認識する能力]であるから、その機能はすべて、〈判断〉における論理的機能に表れている。しかるに、判断は、4名目×3契機の次の表のようになる。
   量 : 全称(すべての)  ・ 特称(いくつかの) ・ 単称(この)
   質 : 肯定(である)   ・ 否定(ではない)  ・ 無限(ではないのである)
  関係: 定言(AはB)   ・ 仮言(AならばB) ・ 選言(AまたはB)
  様態: 蓋然(かもしれない)・ 実然(なのだ)   ・ 確然(にちがいない)
 それゆえ、対象一般にアプリオリに関係し、統一を与える〈純粋悟性概念〉、すなわち、〈カテゴリー〉は次の表のようになる。
   量 :  単 一 性    ・  数 多 性    ・  総 体 性
   質 :  実 在 性    ・  否 定 性    ・  制 限 性
  関係: 偶有性と実体性   ・ 原因性と依存性   ・  共 同 性
  様態:  可 能 性    ・  事 実 性    ・  必 然 性
 つまり、カントは、〈判断〉ということを、[〈命題〉を〈純粋悟性概念〉に包摂すること]と考えていたのであり、また、これらの機能は、〈命題〉の〈判断〉だけでなく、〈観念〉の〈認識〉に関しても働くとされる。このことによって、〈純粋悟性概念〉は、すべての〈観念〉に係わり、客観妥当性を持つことになる。

【事実問題 quid facti~ / 権利問題 quid iu~ris】
 法学において、《何が事実か》と、《何が権利か》とが、すなわち、「事実としてどうしたのか」と、「権利としてどうすべきだったのか」とが区別されるように、哲学においても両者は厳密に区別する必要がある。つまり、事実としてある概念をすでに使用してしまっているとしても、だからといって、権利としてその概念の使用が認められるとは限らない。そこで、このような権利のあいまいな概念に関しては、〈演繹〉が必要になる。ただし、ここで言う〈演繹〉とは法律用語であり、[権利問題において正当性を明らかにすること]である。

【先験的演繹 transzendentale Deduktion】
 〈純粋観念〉は、対象と関係することに関して、経験的事実としてではなく、今後の使用のための権利を包括的に演繹されなければならない。
 第一に、〈感性〉の〈純粋形式〉である〈時空間〉は、対象はこれらを介してしか我々に現れえないのであるから、アプリオリな普遍性を持つ。
 第二に、〈悟性〉の〈純粋概念〉である〈カテゴリー〉も、対象がこれらを介してしか我々に認識されえないのであるから、アプリオリな普遍性を持つ。というのは、受動的な〈受容性〉である〈感性〉においても、主体的な〈自発性〉である〈悟性〉が働いているからである。すなわち、
 まず、多様な〈感覚〉を通覧し、収集する〈補覚 apprehension 〉の統合が〈感官 Sinn 〉によって行われ、〈時空間〉にひとつの〈表象〉を作り出す。
 つぎに、こうしてできた〈表象〉に対し、これに関係する〈観念〉を連想する〈再生 Reproduktion 〉の統合が〈統象力 Einbildungskraft〉によって行われ、認識内容を準備する。
 さらに、この〈表象〉と〈観念〉との関係を判断する〈再認 Rekognition〉の統合が〈カテゴリー〉を用いて〈自覚 Apperzeption〉によって行われ、これによって、ようやく〈直観〉が成立するのである。
 つまり、たとえば、〈犬!〉という感性的〈直観〉においても、〈これは犬である〉という悟性的〈判断〉が働いているということである。すなわち、〈補覚〉によって超越的な〈これ〉が表象され、〈統象力〉によって〈これ〉から経験的な〈犬〉を連想し、〈自覚〉によって〈〈これ〉は〈犬〉である〉という悟性的判断がなされているのである。
 しかし、この「純粋悟性概念の先験的演繹」の部分は、カントの中で最も難解と言われ、またB版(第2版)において大きく書き直されており、問題が多い。
 
【先験的図式 transzendentales Schema】
 〈直観〉を〈概念〉に包摂するには、媒介となる感性的かつ知性的な純粋表象が必要であり、これは、内感の形式、すなわち〈時間〉である。
 〈 量 〉は、その〈時間系列〉に関係し、その図式は〈継時的加算の数〉である。
 〈 質 〉は、その〈時間内容〉に関係し、その図式は〈時間の虚実の度〉である。
 〈関係〉は、その〈時間秩序〉に関係し、その図式は〈恒常性〉〈継起性〉〈同時性〉である。
 〈様態〉は、その〈時間総括〉に関係し、その図式は〈不定〉〈一定〉〈毎回〉である。

【純粋悟性の原則 Grundsa゙tze der reinen Verstandes】
 〈悟性一般〉は[規則の能力]であるが、それは、さらに、概念する〈悟性〉、判断する〈判断力〉、推理する〈理性〉に分けられる。そのうち、〈判断力〉は、命題を規則のもとに包摂する能力であり、〈悟性〉にはこの規準となる諸原則がある。
 まず、〈分析的判断〉の最高原則は、〈矛盾律〉、すなわち、[いかなる事物もそれに矛盾する述語は付かない]というものである。
 つぎに、〈綜合判断〉の最高原則であるが、綜合判断は〈感官〉の統一、〈構想力〉の統一、〈自覚〉の統一のいずれかに基づくがゆえに〈形式〉〈図式〉〈カテゴリー〉が綜合判断の原則となる。しかし、前二者は数学的原則として、悟性的原則を原理とするものであるので、最高原則は〈カテゴリー〉を客体的に使用する規則に尽きている。それは、次のようなものである。
 直観の公理 Axiome der Anschauung
   =直観はすべて外延的大きさである
 知覚の予料 Antizipationen der Wahrnehmung
   =すべての現象において、感覚の対象である実在的なものは、内包的大きさ、すなわち、度がある
 経験の類推 Analogien der Erfahrung
    その原理:経験は知覚の必然的結合の表象を通じてのみ可能である
     第1の類推:実体の恒常性の原則
       =現象のいかなる転変に際しても、実体は恒常し、実体の量は、自然においては、増えも減りもしない
     第2の類推:因果性に依る時間継起の原則
       =すべての変化は、原因と結果の結合の法則にしたがって生起する
     第3の類推:相互作用ないし共同性の法則にしたがう同時存在の原則
       =すべての実体は、空間において同時的として知覚されうる限り、あまねき相互作用にある
 経験的思惟一般の要請 Postulate des empirischen Denkens u゙berhaupt
   =1.(直観や概念にしたがう)経験の形式的条件に一致するものは、可能的である
    2.(感覚の)経験の内容的条件に関連するものは、現実的である
    3.現実的なものとのその関連が、経験の普遍的条件にしたがって、規定されているものは、必然的である

【超越的弁証論 transzendentale Dialektik】
 人間の理性から取り去り難い〈超越的仮象〉を発見し、それに欺かれるのを防ぐための議論。
 このような〈超越的仮象〉は、〈純粋理性概念〉、すなわち〈先験的理念〉を統整的にではなく、構成的に用いる際に生じる。〈先験的理念〉は、カテゴリーの関係の様式に応じており、[定言的統合の無条件者][仮言的統合の無条件者][選言的統合の無条件者]、すなわち、〈我〉〈世界〉〈神〉のことである。これらの超越的実在性は、必然的な理性推理、すなわち、それぞれ、《パラロギスムス(論過)》《アンティノミー(並行論)》《イデアル(空想)》によって生じてしまう。
 《パラロギスムス》によると、〈我〉は、実体、単純、単一、可能とされるが、しかし、実際は、他のすべての観念に伴うまったく無内容な表象にすぎない。
 《アンティノミー》によると、〈世界〉に関して、《独断論》では、有限、単純部分の実在、自由原因の必要、絶対必然者の存在が、《経験論》では、無限、単純部分の不在、自然法則の強制、絶対必然者の不在が主張されるが、しかし、要は、我々は何も知らない、ということである。
 《イデアル》によると、神の実在に関し、感覚界の合目的性から世界創造者の実在を求める《自然神学的証明》、偶然的事物の実在から必然者の実在を求める《宇宙論的証明》、その概念からアプリオリに実在を求める《存在論的証明》があるが、しかし、前二者は《存在論的証明》を前提としており、また、《存在論的証明》も失敗している。というのは、実在を知るには、そのような主語概念の分析ではなく、主語概念の外へ出なければならないのである。だが、我々はこのような純粋概念の対象を認識する手段(知的直観)を持ってはいない。

【構成的 konstitutives / 統整的 regulatives 原理 Prinzip】
 (『純粋理性批判』など)
 経験的対象は、認識をまってはじめて構成されるものであり、このように経験を可能にする原理を〈構成的原理〉と言い、〈純粋悟性の原則〉のうち、数学的な、量に関する〈直観の公理〉と、質に関する〈知覚の予料〉がそうであり、これらに従って、〈規定的判断力〉が働く。
 これに対して、経験における多様なものに統一を与え、また、経験の範囲を拡張する際の原理を〈統整的原理〉と言い、物自体へと導く〈純粋悟性の原則〉のうち、力学的な、関係に関する〈経験の類推〉と、様相に関する〈経験的思惟一般の公準〉や、また、絶対的全体性へと導く〈先験的理念〉、すなわち〈我〉〈世界〉〈神〉がそうであり、これらに従って、〈反省的判断力〉が働く。〈物自体〉や〈絶対的全体性〉がアプリオリに認識されうるものではないが、統整的原理が誤って構成的に用いられると〈先験的仮象〉が生じてしまう。

b)『実践理性批判』
【理論理性/実践理性】
 〈理論理性〉は[対象を認識する能力]であるが、〈実践理性〉は[意志を実現する能力]である。〈理論理性〉は、自由や不死、神の理念の実在性を保証しないが、〈実践理性〉は、これらを要請し、また、〈理論理性〉は、自分自身さえ現象にすぎないとするが、〈実践理性〉は自分を主体として本体とする。
 しかし、〈理論理性〉において、これらの〈理念〉や〈本体〉は否定されたのではなく、ただ不可知であるとされただけであり、むしろ、〈理論理性〉にとってそれら〈理念〉の使用は統整的に不可避であり、〈本体〉も否定されえないとされたのである。そこで、〈実践理性〉は、〈理論理性〉に優位し、[〈最高善〉の実現はこれらの理念なしには考えられない]として、これらの理念、とくに、〈感覚界〉の因果から独立に、〈可想界〉の法則に自己の意志を規定する自由な主体を要請するのである。

【仮言 hyupothetischer /定言 kategirischer 命令 Imperativ】  (I-1-1)
 〈命令〉とは、[客観的強要を表現する当為によって表示される規則]であり、[理性が意志を規定したならば、行為がこの規則によって起こるだろう]という因果を意味する。それゆえ、命令には、ある結果のための作用原因として理性的存在者を規定するか、意志の因果によって達せられるものに係わりなく、ただ意志だけを規定するかであり、前者は〈仮言命令〉と、後者は〈定言命令〉と呼ばれる。
 前者は内容的で、実践的指図にすぎず、後者こそ形式的で、実践的法則たりうる。そして、この根本法則は、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」ということである。

【実践理性の自律 Autonomie】
 (I-1-1-8)
 自己の意志を自己の〈実践理性〉みずからの自己立法によって規定すること。これこそが道徳法則と、それにかなう義務の唯一の原理である。つまり、ここにおいては、消極的な自由としては、法則の内容(実現を求められる対象)から独立に規定し、また、積極的な自由としては、意志を普遍立法的な形式によって規定する。これに対して、内容的な感性的対象に関する法則は〈他律的〉である。

【最高善 das ho゙chste Gut】【実践理性のアンティノミー】【純粋実践理性の要請】
 性向と戦いつつ義務からのみ道徳法則を守る〈徳〉こそが〈幸福〉に値し、〈幸福〉に対する我々の欲求の最上(他のなにものにも従属しない)の制約であり、したがって〈最上善 das oberste Gut〉であるが、しかし、理性の欲求対象としての〈完全善 das vollende Gut(他のなにものの部分でもない)〉は、その徳に値する〈幸福〉をもまた含まなければならない。そして、〈徳〉という〈最上善〉と、その〈徳〉の値する〈幸福〉という〈完全善〉との両方によってはじめて、〈最高善 das ho゙chste Gut〉が構成される。
 しかし、〈幸福〉への欲求が〈徳〉の格率の原因であるとしても、〈徳〉の格率が〈幸福〉を動かす動因であるとしても、〈アンティノミー(並行論)〉に陥る。ただ、前者は絶対的に誤りであるが、後者は感性界の条件において誤りであるだけであり、実践的には可能であるから、〈理論理性〉に対して〈実践理性〉は優位を持ち、また、〈最高善〉の実現には〈自由〉が〈純粋実践理性の要請〉となる。そして、そもそも、[なすべきである]という〈道徳法則〉は、[なすことができる]という〈自由〉の認識根拠でなのであり、また、逆に〈自由〉は〈道徳法則〉の存在根拠である。
 したがって、〈最高善〉を実現することが道徳律に従う意志の必然的対象であるが、意志が道徳律に完全に一致することは、無限の推移の中でのみ可能であり、それゆえ、〈不死〉もまた〈純粋実践理性の要請〉となる。
 さらに、道徳律には〈道徳〉を〈幸福〉と一致させるような根拠もないがゆえに、道徳的意向にかなった全自然の最高原因である〈神〉もまた〈純粋実践理性の要請〉となる。
 ただし、ここで言う〈要請〉とは、[それを前提とすることなしには理性が考ええないもの]である。

c)『判断力批判』
【規定的判断力/反省的判断力 bestimmende/reflektierende Urteilskraft】
 〈判断力〉とは、[特殊者を普遍者に含まれるものとして考える能力]であり、これは、〈規定的〉と〈反省的〉に分けられる。
 〈規定的判断力〉とは、特殊者も普遍者も与えられていて、その特殊者をある普遍者に包摂するするものであり、説明的、構成的である。
 〈反省的判断力〉とは、特殊者しか与えられておらず、その特殊者の包摂されるべき普遍者を発見するものであり、評価的、統整的である。後者が働くためには、その統整的原理が必要であるが、それは〈合目的性〉という主観的な格率である。

【自然の合目的性】
 我々が道徳律によって課せられた目的を自然のうちに実現しなければならない以上、自然は固有に〈合法則的〉でありながらも、同時に自由概念に対して〈合目的的〉でなければならない。もちろん、〈自然の合目的性〉は主張しうるものではないが〈判断力〉によって考えることはできる。
 つまり、〈判断力〉には、普遍が与えられていて特殊をこの下に包摂する〈規定的判断力〉と、特殊のみが与えられていてこれに対する普遍を求める〈反省的判断力〉があり、前者には〈悟性の規則〉が与えられているが、後者には先験的原理が必要であり、これが〈合目的性〉である。
 〈合目的性〉には、主観的・形式的なものと、客観的・実在的なものがある。
 前者は、[認識能力と対象の適合]であり、〈快不快の感情〉による〈美的判断力〉によって〈美〉とされるが、それは、快不快という〈質〉の、主観的普遍性という〈量〉の、対象そのものとは関係ない「目的なき合目的性」という〈関係〉の、主観的必然性という〈様相〉の、概念なき満足の対象にすぎない。この逆に、[認識能力と過大・過強な対象の不適合]は、同じく〈美的判断力〉によって〈崇高〉とされる。
 これらに対して、後者は、[ある先行事物の概念に従う対象の形式の、事物それ自身の可能との適合]であり、〈悟性〉による〈目的論的判断力〉により、その自然の生産物は〈自然目的〉として表象される。このようにして、〈自然目的〉とみなされる事物は、有機体であり、その各部分が、他のすべての部分によってのみ存在するとともに、他の部分および全体のためにこそ存在する交互手段的・交互目的的機関である。この観点から、自然全体は体系化され、その最終目的は、自然に依存せずに形式的に目的を規定しうる資質を産み出す人間の文化ということになる。