E スピノザ

スピノザ(Baruch de Spinoza 1632-77)
 当時、ヨーロッパで最も繁栄するアムステルダムのユダヤ商人の子として生まれ、ユダヤの教育を受けるが、教義に疑問を抱き、教団から無神論者として破門された。その後、人文主義的教養を得、また、デカルト哲学に影響を受け、独自の哲学を築き上げた。彼は、今日のコンピューター技師にも相当する、レンズ磨きという当時の高等専門技術を持ち、大学からの職も辞退して、清貧ながらも自由な生活を選んだ。
 彼は、デカルトの方法装置である《論証主義》を徹底し、哲学の全体系を幾何学的に証明しようとした。これが、主著『エティカ』である。しかし、その内容は、徹底した《汎神論》であり、そして、その神もおよそキリスト教的人格神ではなく、まったく機械的な機能装置として扱われており、無神論に近い。つまり、ある種の《理神論》と言える。このために、当時から、彼の哲学は非キリスト教的《汎神論》、《無神論》として批判を浴び続けた。しかしながら、こういったさまざまな論争の後、精神と物体を並行同一とする《汎神論》の意義がようやく理解され、《ドイツ観念論》に大きな影響を与えた。


【「限定は否定である Determinatio est negatio.」】
 (『書簡』50、『エティカ』定理8)
 〈限定〉とは、[あるものと他のものとの間に区別を立てること]であり、ある図形が無限の空間を限定することによってできる場合に、それは空間の否定、空間の非存在に係わるように、すべての限定は否定であり、非存在に係わる。
 したがって、有限であることは存在の部分否定であるが、神の本質は存在そのものであるがゆえに、神は必然的に無限である。
 これは、旧来、無限が単なる限定の否定として消極的に考えられてきたのに対し、彼は、これを逆転させ、無限の方を積極的なものとし、有限を無限の否定とした、と言える。

【自己原因 causa sui】
 (『エティカ』)
 〈自己原因〉とは、[その本質が存在を含むもの]、すなわち、[その本性が存在するとしか考えられないもの]である。
 ところで、〈実体〉とは[それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの]であるから、これは〈自己原因〉である。しかし、同じ本質のものはただ1つしか存在しないので、実体は存在するものとしてただ1つのみ存在する。そして、有限であるものは同じ本質の他のものによって限定されなければならないが、存在という同じ本質のものは他には存在しないので、〈実体〉は無限なものである。
 また、〈神〉とは[絶対無限の存在者]であるから、このような〈自己原因〉の〈実体〉こそが〈神〉なのでありそれはまた、〈所産的自然〉の存在原因としての〈能産的自然〉なのである。

【神即自然 deus sive natura】
 (『エティカ』)
 〈実体〉とは[それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの]、すなわち、[その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもの]である。それゆえ、それは自己原因であり、本質として存在を含む。しかし、同じ本質のものはただ1つしか存在しないので、実体は存在するものとしてただ1つのみ存在する。そして、有限であるものは同じ本質の他のものによって限定されなければならないが、同じ本質のものは他には存在しないので、実体は無限なものである。ところで、神とは絶対無限の存在者であるから、このような実体こそが〈神〉なのである。
 〈神〉はこのような〈自己原因〉として〈能産的自然〉であるが、神において存在するもの、すなわち、神の諸属性の様態存在は、存在を含まず、神を存在原因としてのみ存在しうるものであり、〈所産的自然〉である。
 つまり、〈神〉はひたすら存在するだけのものであり、その存在の様態(様子)が〈自然〉なのである。そして、後者は様子にすぎないわけであり、存在そのもの(実在)は神に依存しなければならない。(デカルト【実体/属性/様態】を参照)

【心身平行論 parallelism】
 (『エティカ』第2部7)
 [観念の秩序や連結は物の秩序や連結と同じである]ということ。なぜなら、結果についての認識は原因についての認識に依存し、その原因の認識を含むので、観念の秩序や連結は、神における原因の秩序や連結と同じになり、そして、すべてのものは、まさにこの神における観念から生じているから、延長の様態と、その様態の観念とは、2つの仕方で表現されているにすなぎない同じものだからである。
 ところで、唯一の〈実体〉である神は、無限の〈属性〉を持つが、人間は、このうち、〈思惟〉と〈延長〉のみを認識することができる。また、人間において、精神の対象は身体のみであるかゆえに、人間は、精神と身体との合一である。そして、両属性は、同じ秩序と連結を持つが、それぞれの属性において考察される限りにおいてのみ理解され、それは同じ神のそれぞれの属性を原因とするがゆえに、人間においては、その〈身体〉と、その身体の観念である〈精神〉とは平行的なのである。
 これは、デカルトの心身問題に即して、スピノザの考えを拾ったものであり、スピノザ自身においては、この点に関しては、両者の形而上学的な関係よりも、認識論的な関係に重点がおかれている。

【無知の避難所 asylum ignorantiae】
 (『エティカ』第一部付録)
 神の意志という目的論的説明。自然から神の意志を解釈する人々は、自分たちの権威を証明するために、なぜという質問を繰り返し、相手をこの無知の避難所にまで追詰めるという方法を考え出し、また、権威を失うことを恐れて、真の原因を探究しようとする学者を異端とする。しかし、この神の欲することは欠けたものがあるということであるから、意志という説は神の完全性を損なうものであり、また、このような証明に価値がないのは言うまでもない。
 このように、スピノザは、神の人格的な意志を否定し去って、完全なる存在そのものという本性しか持たない、まったく機能主義的な新たな神の像を提示した。それゆえ、彼の哲学は《無神論》に限りなく近いものとなったのである。

【永遠の相の下に sub specie aeternitatis】
 (『エティカ』)
 ものを偶然的なものとしてではなく、必然的なものとして、すなわち、それ自身においてあるがままに観想することであり、これが理性の本性である。このような理性の基礎は概念であり、概念は個物を説明するのではなく、すべてのものに共通のものを説明するがゆえに、それは時間とは関係なく、〈永遠の相の下に〉考えられなければならないのである。
 ところで、〈精神〉とは[身体の観念]であるが、このように永遠の相の下で認識されるのは、身体の現在の時空間的な現実的存在を考えることによってではなく、その身体をもまたその本質を永遠の相の下で、神の本性の必然性から生じるものとして考えることによってこそであり、このように認識するとき、我々の精神は神をも必然的に認識するのである。

【神ヘの知的愛 amor dei intellectualis】
 (『エティカ』第5部)
 認識には〈想像〉〈理性〉〈直接知〉の3種があるが、この第3種の認識は、原因としての神の観念を伴う〈喜び〉(精神がより大きな完全性へ移行する受動)を得ることであり、[外的な原因の観念を伴っている〈喜び〉]こそが〈愛〉であるから、ここに神への愛が生じる。
 そしてこれは、神を現在的なものとしてではなく、永遠的なものとして認識する神への愛なのであり、この愛もまた認識が永遠的であるがゆえに永遠的であり、神の神自身への知的愛の一部である。 つまり、神も、神自身を愛する限りにおいて、人間を愛しているのであり、それゆえ、神に対する精神の知的愛と人間に対する神の愛は同じものなのである。