第三章 イスラーエールの受難

 

第一節 信仰の混乱と護持

イスラーエールの南北分裂

 前九三二年、王シェローモーが死去すると、その子のレハベアーム(レハブアム)(966〜即位26〜10 BC)が王に即位します。しかし、オリエント的な王レハベアームには南のイェフゥダー族とビンヤーミィン族しか従わず、他の北の十部族は、エジブトから戻ったヤーラーブアーム(?〜即位926〜07 BC)を王としてしまいました。こうして、王国は、イェルゥシャーレームを首都とする南王レハベアームのイェフゥダー南王国と、シケムを首都とする北王ヤーラーブアームのイスラーエール北王国とに再び分裂してしまいました。

 かつての北のイスラーエール王国の王エシュバアルと南のイェフゥダー族の王ダーウィイドの対立では、王の出身部族として北側の中心となったビンヤーミィン族が、今度の対立ではイェフゥダー族側に残ったのは、今度の対立がたんに南北の対立ではなく、むしろオリエント的国王集権派とヘブライ的部族自治派の対立であったことをうかがわせます。傭兵集団化していたビンヤーミィン族は、すでにかつてのような遊牧部族としての自活は不可能であったのでしょう。

 しかし、南北両国とも、シェローモー時代の国際交流のために、数多くの異国異教の神々がすでに流入しており、また、このような政権中枢での混乱のために、むしろそれぞれの地方において、その土地の古来からのバアル(ぬし)である土着エール(神)への崇拝も復興し、それぞれの土着エールが宿っているとされる各地の丘陵の上や大樹の下に、その祭壇として「聖なる高台」が建設されていきました。

 先述のように、カナン地方においては、[それぞれの土地には、カナン人(ベニヤミン人)やヘブライ人のカナン流入以前から、それぞれの土地の古来からのバアル(ぬし)あるエール(神)がいる]と考えられており、移住してきたカナン人やヘブライ人もこれに敬意を払い、礼拝を行っていました。その一部は、カナン人の定住と農耕の進展とともに、雨の恵みをもたらす雷雨神「バアル」となりましたが、その他の地域では、ヤーウェー教諸部族の侵略的移住の後も残り伝えられていたようです。また、この土着エール教は、もともと多神教ですので、地元のエールのほか、同じ祭壇に流入した内外のさまざまな神々も一緒に祭られていきました。

 とくに北王国では、北王ヤーラーブアームが、イェルゥシャーレーム神殿の神ヤーウェーへの巡礼で国民が南王国に流出するのを防止するため、ベテル市とダン市に「黄金の子牛」を設置し、また、ベテル市の「聖なる高台」には神殿を建設しました。そして、彼はまた、北王国に残っていたヤーウェー祭司団やレーウィイ族を国内から追放してしまいました。

 ベテル市は、もともと神の家という意味の地名であり、おそらくアブラハム族以来の神「エールシャッダイ」の聖地でもあったと思われます。したがって、北王国がここの「聖なる高台」に神殿を建設するということは、北王ヤーラーブアームがヤーウェー祭司団を追放したことからしても、北王国がヤーウェー教支配以前の神「エールシャッダイ」への信仰を復興しようとしていた、と考えられます。

 聖書は、このエールシャッダイ教について、「ヤーラーブアームの罪」という間接的な表現を採っていますが、それは、この問題が[アブラハム族の神「エールシャッダイ」は、実はモーシェの神「ヤーウェー」であった]というヤーウェー教とイスラーエールによる支配の正当化の論理の核心を破壊してしまう危険性をはらんでいたからでしょう。もっとも、血統的には、南王国民こそ先住民であり、北王国民こそ移住民であったと思われます。しかし、ユダヤ人ではなくゲルマン人がキリスト教徒となったように、血統はかならずしも文化を継承しないものです。

 一方、[「黄金の子牛」が何であったか]は、諸説があってよくわかりません。すなわち、「黄金の子牛」は、神ヤーウェーを火として顕現させるための捧物の象徴であり、その支配の力を示す台座であったとも考えられます。実際、じつは南王国のイェルゥシャーレーム神殿においても多くの雄牛像が備品の台座として用いられていたのです。しかし、ベニヤミン人が定住していたカナン=フェニキアでは、雄牛は、創造神エールシャッダイの化身であり、また、雷雨神バアルの台座ともなっていました。また、ヤーラーブアームが亡命していたエジプトでは、雄牛は、冥界神オシリス(アピス)の化身であり、それこそ「黄金の子牛」がその再生の象徴として崇拝されたりもしています。さらに、雄牛は、遊牧民にとって財産の象徴でしたから、まったく新たな財産神であったのかもしれません。

 聖書は、[かつてシナイ山でモーシェはアハローンが製作した「黄金の子牛」に激怒した]というエピソードを載せ、これをもとに、[北王国は「黄金の子牛」を崇拝するという罪を犯し続けた]と非難していますが、このエピソード自体が、敵対する北王国を批判するために聖書資料を編纂した南王国が後から捏造したものとも考えらます。むしろ当時からすれば、いつでもどこでも臨在することになっている神ヤーウェーを恣意的にイェルゥシャーレーム神殿に固定して独占しようとする南王国の方が、伝統教義に反していたのではないでしょうか。

 一方、南王国は、神ヤーウェーのイェルゥシャーレーム神殿の事実上の大祭司でもあるダーウィイド家の支配にあって、その他の土着エールや異国異教の神々を排除し、むしろ北王国から追放されたヤーウェー祭司団やレーウィイ族を吸収して、各地の布教に派遣し、ヤーウェー教の政教一致の徹底に努力しました。そして、この過程において、イスラーエールの伝説が収集され、前九世紀半ば、[神ヤーウェーによってイスラーエールが成立した]という関点から、一人または一派によって「ヤーウェー資料(「J」)」として編纂されていきました。この資料は、口承神話的で、描写も素朴ですが、あくまで神の名を「ヤーウェー」とし、[南王国のダーウィイド家こそイスラーエールの正統である]とする点に特徴があります。

 「ヤーウェー資料」は、天地創造から王シェローモーについてまで、さまざまなエピソードからなるものであり、その後の聖書のたたき台となっていきました。しかし、それだけに改変も激しく、現聖書では、エデンの園物語・ノアの箱船物語・バベルの搭物語、アブラハム物語、サムソン物語、ダーウィイド物語などに、わずかに原文が残っているとされるにすぎません。

 南北両国は、正統争いの戦争を繰り返しました。この間、イェフゥダー南王国は、オリエント帝国らしくダーウィイドの子孫の王朝が続き、周辺諸民族への支配を拡大していきました。一方、イスラーエール北王国は、ヘブライ部族連合らしく、クーデターが連続して王権が安定しませんでした

 

アッシリアの脅威とエーリィヤー&エーリィシャー

 北王国の北には、ダマスコを首都とするアラム王国(現シリア)があり、シェロモー時代末期にイスラーエールから離反して以来、激しく対立していました。くわえて、前八八三年、メソポタミアで、残忍なアッシュールナシルパル二世(?〜即位884〜59 BC)が「アッシリア新帝国」を再建し、騎兵を駆使して、支配を復興し始めます。

 ここにおいては、部族分権を原則としてきた北王国においても、強固な王権が望まれるようになってきました。そして、国論を二分する内乱の結果、将軍オムリィ(?〜即位878〜871 BC)が第六代北王に就きます。ここにおいて、彼は、アッシリア新帝国の脅威に抗し、また、地中海=オリエント貿易の潮流に乗るために、首都をショーメロォン(サマリア)に移し、周辺諸国と協調政策を採りました。このため、北王オムリィは、王子アハアーブをフェニキアのシドン市国王女イィゼベルと結婚させ、また、第七代北王となったアハアーブ(?〜即位871〜52 BC)も、第四代南王イェホォシャーパート(ヨシャファト)(903〜即位868〜47 BC)と和解し、王妃イィゼベルとの子である王女アタルヤーを南王国王子ヨォラームと結婚させました。しかし、イィゼベルは、結婚とともにフェニキアのバアル祭司団を北王国に招き入れ、これを批判する北王国のヤーウェー祭司団の残党を切り殺しました。そして、このイザベルに感化されて、夫の北王アハアーブも、首都ショーメロォンにバアル神殿を建設してしまい、さらに、娘のアタルヤーも、嫁ぎ先の南王国でバアル教を拡大してしまいました。

 北王オムリィは、その名前から、イスラーエール人ではなく、イスラーエール建国以前の原住民であるカナン人(フェニキア人)であったと考えられます。実際、彼は、ショーメロォン遷都において、その土地を地主から買っていますが、これはカナン人の制度に従ったものです。イスラーエール人であれば、土地は神から与えられた絶対的なものであり、売買したり委譲したりできるものではありませんでした。しかし、このような王朝あっては、民間においてもカナン的な土地の私有売買制が普及し、地主と小作との階層分化が進展したことと思われます。

 また、北王オムリィが協調政策を採ったシドン王エトバアルは、先王を虐殺して王位を奪取した専制的バアル祭司であり、その王女イィゼベルが専制王権とバアル教を信奉しているのは当然のことでした。

 先述のように、雷雨神「バアル」は、カナン=フェニキア人の農業の守護神です。これは、それぞれの土地の古来からのバアル(ぬし)であるエール(神)とは異なりますが、しかし、イスラーエールにおいても、定住や開墾によって新たに農業が中心となった地域においては、土着エールが、火である戦神ヤーウェーよりも雷雨の農業神「バアル」の方へ融合していく傾向があったようです。

 このころ、ちょうどイスラーエール北王国は干害が続き、飢饉となってしまっていました。この状況に預言者エーリィヤー(エリヤ)が忽然と登場し、[この干害飢饉は、北王室によるバアル教の横行に対する神ヤーウェーの怒りである]と体制批判を説き、人々に「バアルかヤーウェーか」の二者択一を迫りました。このため、第七代北王アハアーブを中心とする北王室は、預言者エーリィヤーを殺そうとしましたが、預言者エーリィヤーは神出鬼没で、けっして捕まることはありませんでした。そして、預言者エーリィヤーは、大胆にも北王室にすべてのバアル祭司団をカルメル山に集めさせ、人々を前に対決します。ここにおいて、バアル祭司団は神バアルに、預言者エーリィヤーは神ヤーウェーに、それぞれ牛を捧げましたが、神ヤーウェーに捧げた牛だけが燃え上がったために、人々は、ヤーウェーへの帰依を誓い、すべてのバアル祭司たちを殺してしまいました。北王室はこれに激怒しましたが、預言者エーリィヤーはすぐに逃亡してしまいました。

 「エーリィヤー」という名は、まさに「神(エール)はヤーウェー」という意味です。そして、彼は、その後の体制批判的預言者の原型となりました。以後の預言者は、これまでの預言者のように世襲祭司であるとは限らず、神ヤーウェーによる直接の召し出しに応えて、バアル教の流行に対し、神ヤーウェーへの回帰を命がけで訴える、というものになっていきました。もっとも、このような預言者たちの運動は、運動とはいえ、イスラーエールが滅亡するまで王室はもちろん人々にもけっして理解され共感されることのなかった孤独な戦いでした。

 このように大胆な預言者エーリィヤーも、内心は孤独と迫害に悩み怯えており、かつてモーシェが十戒を得た神の山であるシナイ(ホレブ)山に隠れ篭っていました。そして、ここにおいて、彼は、神の言葉として[神は、いかなる迫害にも神を信じ守る者を残こす]という〈残りの者(シェアー)〉の思想を得て、使命を痛感し、自信を回復します。そして、彼は、預言者エーリィシャー(エリシャ、神は救い)を弟子とし、各地の祭司を在野の預言者団として再編していき、最後には火炎戦車(「メルカバ」)に乗って天に昇っていったと伝えられています。この後、預言者エーリィシャーは、各地で様々な奇蹟を行って人々を救い、神ヤーウェーの回帰を訴えて歩きました。

 先述のように、ヤーウェー祭司団は、国王シェムゥエールによる迫害、サードォク派による覇権、北王レハベアームによる追放、北王妃イィゼベルによる虐殺で、とくに北王国では没落し、その多くが南王国に亡命してしまっていました。それゆえ、預言者エーリィヤーは、シナイ山体験以後、反王室・反バアル教闘争として、ヤーウェー教徒ではない土着エール預言者とも連係することを選択したのかもしれません。つまり、彼が再編した預言者団は、ヤーウェー教だけによるものではなく、ヤーウェー教を含む多神教的な土着エール教のものであったのかもしれません。

 この〈残りの者〉という思想は、いかなる迫害においてもユダヤ教・キリスト教・イスラム教が存続し普及する強固な契機となっていきました。というのは、この思想によれば、[迫害があればあるほど、それを耐え忍んで神を信じ守ることに、神から選ばれた者としての使命がある]ということになるからです。

 挑発による批判の預言者エーリィヤーと奇蹟による救済の預言者エーリィシャーとは、師弟とはいえ、動と静と、きわめて対称的です。この関係は、その後の洗礼者ヨハネと救済者イエスの関係とも似ています。実際、洗礼者ヨハネは、預言者エーリィヤーの再来とされ、また、救済者イエスの行ったとされる奇蹟の多くが、預言者エーリィシャーの奇蹟に原型があるようです。いずれにしても、後のアーモォスやホォシェーアが「文章預言者」と呼ばれるのに対して、エーリィヤーやエーリィシャーは、「行動預言者」と呼ぶことができるでしょう。

 このような北王国の混乱に、対立する東北のアラム王国が侵攻し、首都ショーメロォンを包囲してしまいます。これに対し、北王アハアーブは、打って出て、逆にアラム王を追い込みます。しかし、アッシリア新帝国の脅威があったために、北王アハアーブは、アラム王と講和します。そして、実際、前八五三年、アッシリア新帝国がカナン地方へ侵攻したため、北王アハアーブは、カナン諸国とともにアラム王国に協力し、これを撃退します。しかし、この後、ふたたび北王国は、アラム王国と戦争となり、南王イェホォシャーパートの援軍を得るも、北王アハアーブは戦死してしまいます。

 

イェーフゥとイェホォヤーダーの反バアル革命

 北王国では、北王アハアーブの死後、その子が王に即位しますが、すぐに事故で死んでしまったので、その弟のヨォラーム(?〜即位851〜45 BC)が第九代北王に即位します。彼自身はバアル崇拝をしませんでしたが、その国内での流行は衰えることはありませんでした。また、南王国でも、イェホォシャーパートの子のヨォラーム(880〜即位52〜45 BC)が第五代南王となりましたが、北王国出身の王妃アタルヤーなどの影響を受け、北王国同様に、ヤーウェー教を放棄して土着エール教を復興してしまいました。しかし、この両国の協調にもかかわらず、北王国の北では、あいかわらずアラム王国との戦争が続き、また、南王国の南では、新たにエドム王国が離反独立し、戦争が起ってしまい、どちらの戦争も劣勢となっていました。

 第九代北王と第五代南王は、同じ時期に同じヨォラームという名前なので、混同しないように。このことからも、この時期の両国の協調がわかるでしょう。

 南王国で記された聖書によれば、[北王ヨォラームは、バアル崇拝はしなかったが、「ヤーラーブアームの罪」を重ねた]とされています。これは、聖書では「黄金の子牛」への崇拝とされていますが、先述のように、むしろヤーウェー教色抜きの土着エール教、とくにエールシャッダイ教であったと思われます。

 このような状況にあって、北王国では、前八四五年、北王ヨォラームがアラム王国との戦争で負傷したのを機会に、預言者エーリィシャーを中心とする預言者団が将軍イェーフゥ(エヒウ)(?〜即位845〜18 BC)を王に指名します。そこで、将軍イェーフゥは、レーカーブ人(馬族)たちの協力を得、ただちに挙兵して北王ヨォラームを殺害し、さらにその一族もことごとく殲滅して、第十代北王に即位しました。そして、彼は、「これからはバアル崇拝を大々的に振興する」と称して、国内のすべてのバアル信者を首都ショーメロォン市のバアル神殿に集め、ここに閉じ込めておいて軍隊によって虐殺し、また、そのバアル神殿を壊して公衆便所にしてしました。こうして、北王国からバアル教が一掃されました。しかし、北王イェーフゥは、土着エール教は温存しました。

 レーカーブ人とは、その後、馬に乗るようになった荒野のヘブライ人のことです。彼らは、バアル教、と言うよりカナン=フェニキア人の勢力拡大に強く反発を感じていたのでしょう。

 因果は巡るのか、その後のドイツのユダヤ人狩りは、この新王イェーフゥのバアル信者狩りと、とても似ています。このことは、[ユダヤ人狩りの邪悪さをドイツの固有の異常さとしてかたづけることはできない]ということを、つまり、[ドイツ人にもユダヤ人にも、すべての人間の本性にはこのような邪悪さが潜在している]ということを示しているのではないでしょうか。

 エーリィシャーを中心とする預言者団は、その後、イェーフゥ王朝の宗教的正統性の保証者となったようです。しかし、イェーフゥ王朝は、たしかにバアル教は排除したものの、土着エール教は温存しており、このことから、エーリィヤーが再編してエーリィシャーが継承した預言者団は、ヤーウェー教だけによるものではなく、ヤーウェー教を含む多神教的な土着エール教のものであったと推察されます。

 第六代南王アハズヤーフゥ(アハズヤ)(867〜即位45〜同 BC)は、運悪く、ちょうどこのとき北王ヨォラームの見舞に来ており、まきぞえとなって殺されてしまいます。この機会を捕らえて、北王国出身の母妃アタルヤーは、逆に南王国のダーウィイド家を抹殺して南王国を支配し、母方の祖国からのバアル教を普及してしまいます。つまり、バアル教は、北王国で一掃されたものの、南王国で隆盛することになります。しかし、前八三五年、祭司イェホォヤーダー(ヨヤダ)は、「地の民(アム=ハアーアーレス)」の支持を確保して、ダーウィイド家の生き残りの七歳のヨォアーシュ(ヨアシュ)(847〜即位40〜801 BC)を第七代南王に擁立し、母妃アタルヤーとその一派のバアル教徒を抹殺します。そして、祭司イェホォヤーダーが事実上の摂政となって、ヤーウェー祭司団による独裁的支配を行います。しかし、ここにおいて、ヤーウェー祭司団は、税金に相当する神ヤーウェーへの国民の献金を国王のイェルゥシャーレーム神殿に上納せず、それぞれの地方で留保してしまったようです。そして、祭司イェホォーヤーダーが死去すると、南王ヨォアーシュも、異国異教の神々を含む土着エール教へ転向してしまい、イェホォヤーダーの子の祭司も殺害してしました。

 この「地の民」がどのような階層であったか、不明です。この時期にはすでに地中海=オリエント貿易が発展してきていたことから考えて、この「地の民」は、大麦・小麦・ブドウ酒・オリーヴ油などの商品作物の生産によって経済的にも有力となった地方の豪族的独立自営農民ではないかと思われます。そして、彼らは、オリエント的国王集権よりもポリス的地方分権を希望し、イェルゥシャーレーム神殿の神ヤーウェーよりも地元の聖なる高台の土着エールを信仰していたと思われます。地方のヤーウェー祭司団がそれぞれの地方で献金を留保してしまったのも、この「地の民」の地方分権化の傾向に沿ったことだったのではないでしょうか。

 南王ヨォアーシュは、やがて家臣たちに暗殺されてしまいます。その子の第八代南王アマスヤー(アマツヤ)(824〜即位800〜786 BC)は、父王を暗殺した家臣たちを処刑し、ヤーウェー祭司団を排除し、異国異教の神々を含む土着エール教を崇拝しました。そして、彼は南のエドム王国を倒し、続けて、北の北王国に挑みます。しかし、彼は、イェーフゥの孫である第十二代北王ヨォアーシュ(ヨアシュ)(?〜即位798〜83)に返り討ちにあい、捕らえられ、イェルゥシャーレームの神殿や宮殿の財宝も奪われてしまいました。

 

北王国の繁栄滅亡と文章預言者たち

 前八世紀前半において、メソポタミアのアッシリア新帝国は勢力を減退し、南のバビロニア王国・東のメディア王国・北のウラルトゥ王国との戦争に終始していました。この間、南王国では、第九代南王ウッジィヤー(アザーヤー)(803〜即位787〜36 BC)とその子の第十第南王ヨォターム(782〜即位(共同統治)57〜42 BC)が、ヤーウェー教を中心として「地の民」に対する農業振興政策などを行い、温和な繁栄が続きました。

 北王ウッジィヤーの治世は、とても長いにもかかわらず、資料的には、いまだあまり詳しいことがわかっていません。

 北王国でも、イェーフゥの曾孫である第十三代北王ヤーラーブアーム(ヤロブアム)二世(?〜即位787〜47 BC)が、アラム王国などの周辺領土を再征服し、ダーウィイド・シェローモー時代のイスラーエールの繁栄を取り戻します。そして、この時代、北王国では、南王国の「ヤーウェー資料」と対抗し、おそらくエーリィシャー以来、イェーフゥ王朝の宗教的正統性の保証者となってきた宮廷預言者団によって、「エローヒィム資料(E)」が編纂されました。これは、「ヤーウェー資料」と同じく、イスラーエールの伝説に基づき、「神によってイスラーエールが成立した」とするものですが、しかし、神をあくまでも「エール」または「エローヒィム」と呼び、その神も、素朴で親密な神ヤーウェーと違って、人間に直接には話し掛けず、預言者などを介して言葉を伝えてくるものであり、また、アブラハム・イスハーク・ヤァクォーブの系列として、[北王国のヨォセープ族(メナッシェ族・エプライム族)こそイスエラエールの正統である]としているという特徴があります。しかし、北王国はこの後すぐに滅亡してしまったために、聖書は南王国で編纂されることとなり、ここにおいては「ヤーウェー資料」が軸とされ、「エローヒィム資料」はそれを補う部分しか採り込まれなかったようです。

 「エール」は、「神」の一般名詞であり、「エローヒィム」は、文法的にはともかく事実上は「エール」の複数形であって、「神々」と訳すべきものです。しかし、これでは多神教になってしまうので、唯一神教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、[複数形で尊敬を表わす]と説明しています。しかし、このころはまだ、土着エール教として、事実、多神教であったのではないでしょうか。そして、このような「エローヒィム資料」の中に、アブラハム、イスハーク、ヤァクォーブの神である「エールシャッダイ」も登場します。

 しかし、南王国が農業国家であったのに対し、北王国は貿易国家であり、このため、北王国では、その経済の発展とともに貧富の差がますます拡大し、貢納搾取によって債務奴隷すらも発生するようになってしまっていました。また、文化的にも、豊かな地主貴族商人たちや宮廷と結託した預言者団が贅沢な生活や祭礼をする一方、拝金主義が横行し、堕落退廃が蔓延していきました。このため、裁判すらも、賄賂によってねじ曲げられ、不正がまかり通るようになってしまっていました。

 南王国では、神から与えられた「嗣業の地」として土地所有が保証され、中産階級である商業作物を生産する豪族的独立自営農民「地の民」が中心となっていましたが、しかし、北王国では、オムリィ以来、土地の私有売買制が普及し、このことが貧富の差、地主貴族商人と小作貧窮農民への階層の分化と搾取を助長したと考えられます。とくに、北王国では、カナン=フェニキア人も多く混住し、彼らは先住地主として、宮廷貴族として、貿易商人として、イスラーエール人よりも優位にあることが少なくなかったようです。また、宗教的にも、彼らは、ヤーウェー教だけではなく、バアル教や土着エール教も信奉していたようです。このことは、彼らの名前の多くが、あいかわらず「バアル」を含んでいることから推察されます。また、このように優位の人々がバアル教や土着エール教を信奉していたために、イスラーエール人の中にもバアル教や土着エール教も信奉する人が少なくなかったようです。実際、神殿はともかく、住居からは、多くのアシュタレト土像などが発見されています。

 これに対して、南王国の農民預言者アーモォス(荷を負う者)は、北王国において、[北のアラム人、南のエドム人、東のアンモン人・モアブ人、西のティルス人・ガザ人、そして、南王国人はもちろんのこと、ヤーウェーに選ばれた北王国人も、むしろヤーウェーの選民であるがゆえに、それだけ厳しくヤーウェーは罪を罰する]と預言します。彼によれば、北王国の罪とは、[選民でありながら不義虚栄を重ねていること]です。ここにおいて、彼は、[ヤーウェーは祭より義を求める]とし、また、[罪にはヤーウェーみずからが裁を下す]として、〈義(セデク)〉と〈裁(ディイン)〉を強調します。〈義〉は、ただひたすらヤーウェーによって定められた伝統的規範を忠実に守ることであり、また、〈裁〉は、不義に対する罰として、戦乱や災害によって罪人を滅ぼしつくすことです。彼は、ヤーウェーによる北王国への罰としての災厄を、「裁きの日」として黙示(幻想)的な表現で預言します。しかし、彼は、このような不吉な預言のために、やがて預言を禁止され、ふたたび南王国に追放されてしまいました。そして、北王国の地主貴族商人たちは、[たとえ災厄が起っても、豊かであれば影響もない]と、不義虚栄を重ね続けました。このため、アーモォスは、この後、自分の預言を文章にまとめ、北王国に警告を続けます。そして、その後、その預言が実現してしまったために、彼の預言文章も尊重されることになり、編集されて、『アモス書』となっていきました。

 アーモォスは、先述の南王国の「地の民」、すなわち、商品作物を生産する豪族的独立自営農民であったようです。そして、彼は、その名のごとく荷を負って、商品作物を売るために南王国はもちろん北王国の各地も歩き、北王国の退廃について多くの見聞を得ていたようです。

 前七四七年、北王ヤーラーブアーム二世が死去し、また、前七四五年、アッシリア新帝国にトゥクルティ=アピル=エシャラ(ティグラトピレセル、プール)三世(?〜即位745〜727 BC)が登場します。彼の登場によって、アッシリア新帝国はふたたび勢力を回復し、前七三三年から、まず東方諸勢力を征服し、さらに西方のアラム王国も侵略していきます。このアッシリア新帝国によるアラム王国(シリア)・イスラーエール北王国(エプライム)の侵略は、「シリア・エフライム戦争(733〜721 BC)」と呼ばれます。この脅威に、イスラーエール北王国は、服従派と抗戦派とに国論を二分して内乱が続き、衰退の一途をたどっていってしまいます。

 このような危機的状況にあって、預言者ホォシェーア(ホセア、ヤーウェーは救う)も、やはり文章で預言をし、イスラーエール人に改心を求めました。彼は、自分の妻の転落と救済という辛い体験から、〈愛(アハバー)〉と〈帰(シュウブ)〉を主張し、[イスラーエール人がヤーウェーとの契約を破ってもなお、ヤーウェーはイスラーエール人を愛している]と考え、[イスラーエール人は、このヤーウェーの愛に応え、ヤーウェーの下に帰らなければならない]と訴えました。〈愛〉は、神ですら苦しむほどのものであり、それは、いかんとも離れがたい夫婦の情愛と変わりありません。したがって、そのようなイスラーエール人へのヤーウェーの愛は、同時に、ヤーウェーへのイスラーエール人への愛を求めることになります。また、〈帰〉は、悔い改めることであり、ヤーウェーからの逃避を止め、ヤーウェーへの愛へ回帰することです。つまり、彼は、[神から逃避しているかぎり、戦乱や災害がイスラーエール人を責め苛むことになる]と警告し、[ヤーウェーへ帰ることこそ、この危機を脱する道である]と主張したのでした。

 『ホセア書』は、聖書の中でもとくに文章に混乱がひどく、ホォシェーアの体験についても正確なところはよくわかりません。一説には、[彼は、バアル神殿の神殿娼婦と結婚し、その後、その妻が男と逃げたにもかかわらず、これを連れ帰って更生させた]とされます。彼が文章で、そして、おそらく匿名で預言したのも、このようなスキャンダラス(醜聞的)な事情のゆえだったのではないでしょうか。そして、彼の預言文章は、その後、筆写され回覧されて人々に読まれていったために、文章に混乱が生じたのではないでしょうか。

 前七二一年、イスラーエール北王国は、ついにアッシリア新帝国に滅ぼされてしまいます。そして、アッシリア新帝国は、民族消滅政策として、イスラーエール北王国民の多くを捕虜奴隷として連行してしまうとともに、イスラーエールには他の地域の捕虜奴隷を植民しました。このため、わずかに残されていたイスラーエール北王国民も、南王国に亡命したり、植民者たちと混住したりすることになりました。こうして、北王国は完全に滅亡してしまいました。そして、その後、イスラーエール人と、植民者たちとの混血も進み、文化や宗教も融合が深まって、「サマリア人(ショーメロォン人)」と呼ばれるようになっていきます。

 先述のように、北王国は、前9世紀前半のオムリィ以来、もともとカナン=フェニキア人との混住が進展し、文化的・制度的にもかなりカナン=フェニキア化していました。そして、いま、さらに東方のアッシリア=バビロニア的文化・制度が流入することになったのです。このため、中産均一的な豪族的独立自営農民である「地の民」を中心として文化宗教的純粋性を重視する南のイェフゥダー人は、このような民族・文化・制度の混淆を重ねて北のサマリア人を、汚れた民として厳しく差別するようになっていきます。

 一方、アッシリア新帝国によって連れ去られてしまったイスラーエール人のその後についてはまったく謎のままです。このため、彼らは「失われた十支族」と呼ばれています。外典『第四エズラ書』によれば、[彼らは、アッシリア新帝国から脱走し、さらに遠くの国へ逃亡した]とされ、一説には、中国や日本にまで移り住んでいったとも言われています。たしかに中国には、はるか古代からユダヤ人が移り住んでいたようですが、それがこのイスラーエール人かどうかはわかりません。

 

第二節 ユダヤ教の成立

南王国の改革

 アッシリア新帝国によって「シリア&エフライム戦争(733〜721 BC)」が勃発し、北王国が侵略され滅亡していったころ、イェフゥダー南王国では、第十一代南王アーハーズ(762〜即位35〜27 BC)が、このアッシリア新帝国に服従することによって戦乱を回避しました。しかし、その服従の証拠として、彼は、アッシリア協調政策を採り、王宮や神殿の宝物をアッシリア新帝国に献納したり、イェルゥシャーレームの神殿をアッシリア風に改造したりしなければなりませんでした。また、これとともに、人々の間にも異国の様々な神々が流入し、各地に様々な祭壇が建設されることになってしまいました。

 このような政治と世相に対し、預言者イェシァヤーフ(イザヤ)(?〜召命735〜27)は、〈聖絶(ヘーレム)〉を主張し、激しく体制批判と神罰預言を展開しました。〈聖絶〉は、本来は、[ヤーウェーやその選民であるイスラーエール人に逆らうものをヤーウェーが滅ぼしつくす]ことを意味しました。彼らにおいては、[[ヤーウェーやその選民であるイスラーエール人に逆らった汚れたものは、たとえ戦争で勝っても、けっして戦利品にしたりすることなく、町ごと焼いて清めなければならない]と神が定めている]と考えられたのです。しかし、イェシァヤーフは、[いまやその聖絶が、アッシリア新帝国などの敵国にはもちろん、不義にまみれてしまったイスラーエール人自体にも加えられようとしている]と警告したのです。しかしまた、彼は、[この〈聖絶〉によって汚れが払われた後には、ヤーウェーは、義である〈残りの者〉を聖なる者とし、その繁栄を約束する]と預言しました。つまり、彼は、[ヤーウェーは聖絶よって腐敗社会を滅ぼし理想社会を現わす]と考えたのであり、この発想こそがその後のユダヤ教の核心となる聖絶史観を形成していくことになりました。また、この中には、[〈聖絶〉の終りに、ダーウィイド王家に救世子が生れ、平和の指導者となる]といういわゆる《救世子預言》が含まれており、その後の苦難の時代には人々の期待を集めることになりました。

 ヤーウェー教、そして、ユダヤ・キリスト教の聖性は、〈けがれ〉の認識と、その払拭によって成立するものです。これは、日本の神道の〈けがれ〉や〈みそぎ〉の概念などとも似ていますが、しかし、自分自身のけがれを問題としたことは、おそらくイェシァヤーフの独創であり、その後のユダヤ・キリスト教において、不完全である被造物の絶対的な原罪の自覚として、信仰の根本的な原理となっています。

 イェシャヤーフも、アーモォスやホォシェーアと同様に預言を文章で残し、これが聖書の『イザヤ書』の原型となりました。ただし、『イザヤ書』は、イェシァヤーフ本人の預言は三九章までで、以下は別の預言者の預言であり、また、前半にしてもさまざまな異文が階層的に紛れ込んでしまっているとされています。しかし、いずれにしても、その聖絶史観のゆえに、『イザヤ書』はユダヤ教の核心をなす「小聖書」として重視されるようになっていきます。つまり、イェシァヤーフによって、エールシャッダイ=ヤーウェー教は、その後のユダヤ教への第一歩を踏み出すことになったのです。

 また、後に『セプタギンタ(七十人ギリシア語訳聖書)』が彼の《救世子預言》の「救世子は若妻から生れる」を[救世子は処女から生れる]と誤訳したために、救世子は、やがて超人的・神的な「救世主(メシア)」へと高められていくことになってしまいました。しかし、イェシャヤーフの預言は、あくまで南王アーハーズのアッシリア協調政策に向けられたものであり、その意味で、この救世子は、イェシャヤーフの批判に従順であった王子ヒズクィイヤーフを指すものであったのではないでしょうか。

 第十二代南王ヒズクィイヤーフ(ヒゼキヤ)(740〜即位25〜697 BC)は、預言者イェシァヤーフの批判を聞き入れ、父王アーハーズのアッシリア協調政策を転換します。そして、彼は、国内的には、かつてモーシェがエジプト脱出の際に行ったとされる「過越祭」を国家的行事とすることを中心に、分権的傾向のあった地方のレーウィイ人祭司たちをもふたたび支配下に治めるなど、徹底した信仰の引き締めと国威の建て直しを行い、また、国外的には、大国のエジプト新王国と同盟してアッシリア新帝国に抵抗しようとします。ところが、エジプト新王国では、前七一二年にリビア人からエティオピア人が政権を奪って第二五王朝を建て、むしろアッシリア協調策に転じてしまいました。このため、イェフゥダー南王国は、アッシリア新帝国の西方侵略の矢面に立たされ、攻撃を受けてしまいます。しかし、前七〇一年、首都イェルゥシャーレーム陥落寸前、アッシリア軍は疫病が流行したため撤退し、イェフゥダー南王国はどうにか存続しました。

 アッシリア新帝国は、勢力を建て直すと、イェフゥダー南王国を避けて海岸沿いにエジプトまで侵攻し、前六七一年、エティオピア系第二五王朝のエジプト新王国を征服して、ついにオリエントのほとんどを支配する巨大帝国となります。このような巨大アッシリア新帝国の影響下にあって、征服されなかったイェフゥダー南王国でも、第十三代南王メナッシェー(マナセ)(708〜即位696〜42 BC)は、かつての南王アーハーズと同様のアッシリア協調政策に回帰してしまい、アッシリア風の祭礼を導入してアッシリア新帝国への服従を提示する一方、彼自身はこのような苦難にあって「聖なる高台」を再建して多神的な土着エール教を信奉しました。一説には、彼は、父王ヒズクィイヤーフの改革からの後退を非難する預言者イェシァヤーフの首をのこぎりで引いて殺してしまったとさえ伝えられています。このような異教の流行や政治の腐敗に対し、密かに信仰の再生が希求され、前六五〇年頃、かつての「ヤーウェー資料」と「エローヒィム資料」がひとつにまとめられていったようです。

 もっとも、巨大帝国となったアッシリア新帝国も、前六六三年にはエジプト人自身がギリシア系イオニア人を傭兵として第二六王朝を建て、また、アッシリア本国でも王家内紛が生じたため、すぐに縮小に転じなければなりませんでした。イェフゥダー南王国でも、王子アーモォン(663〜即位41〜40)が第十四代南王に即位し、父王メナッシェーのアッシリア協調政策を継承しますが、翌年、このようなアッシリアの衰退に乗じた家臣のクーデターによって暗殺されてしまいます。これに対し、国民は、このクーデター派を倒し、わずか八歳の弟王子ユオーシュィイヤーフ(ヨシヤ)(631〜即位39〜09 BC)を第十五代南王に即位させます。

 先述のように、南王国では、「地の民」、すなわち、商品作物を生産する豪族的独立自営農民が中心となっており、彼らは保守的であり、また、熱心なヤーウェー教徒でもありました。クーデターについて詳細は不明ですが、おそらく、南王アーモォンのアッシリア協調政策に対して反アッシリア親エジプト派家臣が起こしたものであり、これに対し、「地の民」は反アッシリア反エジプトであったのでしょう。そして、この「地の民」による新政権の事実上の指導者は、後述する大祭司ヒルクィヤーフであって、新南王ユオーシュィイヤーフはその傀儡にすぎなかったのではないでしょうか。

 幼い南王ユオーシュィイヤーフは、イェルゥシャーレーム神殿のサードォク家の大祭司ヒルクィイヤーフ(ヒルキヤ)の助言に従い、ふたたびアッシリアの影響を払拭すべく、曾祖父王ヒズクィイヤーフの信仰の引き締めと国威の建て直しを継承し、宗教と政治の中央集権を徹底します。すなわち、彼は、地方のレーウィイ人祭司たちを使って、国内各地にある様々な異国の神々の彫像や祭壇はもちろん、レーウィイ人祭司たちが保守してきた各地の祭壇をも廃止し、首都イェルゥシャーレーム神殿を唯一のものとして、ここに寄付金を集中させ、その大規模な改修を行いました。すると、この改修工事において旧神殿から新たに律法書が発見されます。この律法書は、後に『申命記』の原典となるものであり、この律法書に従って、幼王は、[イェフゥダー人が神に選ばれた聖なる民である]というその《選民意識》を中心に、国民の生活を厳格に粛正します。こうして、ここに《唯一の神》《唯一の神殿》《唯一の選民》という後のユダヤ教の排他的三大原理が成立していきました。そして、この南王ユオーシュィイヤーフの改革は、後に「申命記改革」と呼ばれることになりました。

 この神殿から発見されたとされる律法書は、以前から知られている律法と同様に神からモーシェに与えられたものとされますが、実際は、大祭司ヒルクィイヤーフ、もしくは、より以前の南王ヒズクィイヤーフ時代の祭司が捏造したものと思われます。この律法書は、新規の律法というより、モーシェ以来の律法を再編補完し、その意味を[イェフゥダー人は選民である]ということで説明強調したものです。なかでも六章四〜五の「聞けイスラーエール」は、ユダヤ教の根本信条となり、その六〜九の規定どおりに生活の時々に復唱され、家屋の所々に掲示されました。すなわち、それは「聞け、イスラーエールよ。我らの神ヤーウェーは、唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神ヤーウェーを愛しなさい。」というものです。

 アッシリア新帝国の混乱に、東方諸勢力もふたたび強まり、前六二五年にはバビロニア新王国が成立します。そして、前六一二年、バビロニア新王国がアッシリア新帝国を滅亡させると、これに乗じて、エジプト新王国第二六王朝の王ネコォ二世(?〜即位609〜595 BC)も、メソポタミアへ侵攻しようとします。ここにおいて、イェフゥダー南王国の若王ユオーシュィイヤーフは、これを妨害しようとしたため、エジプト軍に殺害されてしまい、イェフゥダー南王国はエジプト新王国の属国とされてしまいます。

 預言者イルメヤーフ(エレミヤ)(?〜召命626〜?)は、王ユオーシュィイヤーフの改革の熱烈な支援者であり、イェフゥダー南王国がエジプトの属国となってしまった後も、[神罰としてさらにバビロニアがイェフゥダー南王国を滅亡させる]と預言し、急進破壊的な改革を主張しますが、誰にも理解されず、かえって冒涜者として殺されかけることもしばしばでした。しかし、実際、この後、バビロニア新王国の第二代の王ナブー=クドゥール=ウースル(ネブカドネザル)二世(?〜即位605〜592)がイェフゥダー南王国を侵略し、前五九七年、エジプトから奪って、属国にしてしまいます。ここにおいて、バビロニア軍がイェルゥシャーレームにも占領管理することとなり、即位したばかりの第十八代南王イェコニヤーフ(イェホォヤーキィン(エホヤキン))(即位598〜97)とその家族および宮廷官吏らをバビロニアの首都バビロン市に連行してしまいました。そして、バビロニアは、第十五代南王ユオーシュィイヤーフの子で第十八代南王イェコニヤーフの叔父であるマッタニヤーフ(マッタニヤ)(616〜即位597〜87 BC)を、傀儡王としてシドクィイヤーフ(ゼデキヤ)と改名させて第十九代南王に即位させました。

 預言者イルメヤーフは、[神罰としての強国バビロニアの支配に謙虚にして服従こそ救済がもたらされる]と主張しますが、南王シドクィイヤーフは、国内の反バビロニア派を抑えきれず、また、エジプトの策謀に乗せられて、バビロニア新王国に反旗を翻してしまい、長い戦争の末、前五八七年、逆にイェフゥダー南王国は完全に滅亡させられてしまいます。ここにおいて、イェフゥダー南王国は、財宝は持ち去られ、神殿は焼き払われてしまいます。また、王族は惨殺されてしまい、南王自身は目をえぐられ、かろうじて生き残ったイェルゥシャーレーム市民たちとともに、戦争捕虜としてバビロニア新王国の首都バビロン市に連れて行かれてしまいました。この出来事を「バビロン捕囚」と言います。

 五九七年の第十八代南王イェコニヤーフとその家族および宮廷官吏らの連行は「第一団バビロン捕囚」と、五八七年のイェルゥシャーレーム市民たちの連行は「第二団バビロン捕囚」と呼ばれますが、両者の性格はまったく異なっています。というのは、前者は、あくまで同盟従属国の客分的人質ですが、後者は、もはや反逆敗戦国の奴隷的捕虜だからです。

 

バビロニア捕囚と申命記的預言者たち

 バビロニア新王国が官僚ゲダルヤーフをイェフーダー(ユダ)総督に指名すると、捕虜になることを免れた人々がふたたびイェルゥシャーレーム市に集って来ました。かねてからバビロニア新王国への服従を主張していた預言者イルメヤーフも、親バビロニア派として釈放され、彼は、神による世界の諸国の滅亡とイスラーエールの復活を黙示(幻想)的に預言します。そして、彼は、バビロニア新王国の捕虜イスラーエール人たちにも手紙を送って励ましました。また、イェヘズクェール(エゼキエル)も、バビロニア新王国の捕虜イスラーエール人の中にあって預言者となり、同様に神による世界の諸国の滅亡とイスラーエールの復活を黙示(幻想)的に預言します。

 彼らは、[この国家の滅亡は、イスラーエール人の不義の罪に対する神の罰であった]と説きましたが、これに対し、「親がすっぱいブドウを食べると子の歯が浮く(先祖の罪を子孫が被った)」という皮肉が流行したため、彼らはまた、[これからは神は個人の罪に罰を与える]と説きました。そして、彼らは、イェシァヤーフ的な聖絶史観から、[イスラーエールは、滅亡という神罰によって浄化されたのであり、やがて神聖なる国家として復活する]と説きました。とくにイルメヤーフは、[そのイスラーエール復活の日において、カナン契約やシナイ契約とは異なる「新たな契約(新約)」が神と結ばれる]とし、[それは、民族の全体としての契約ではなく、個々の個人と神との直接の契約であり、心の中の律法に基づくものである]としました。

  イルメヤーフの預言は、弟子バールゥクによって記録され、その後、聖書の『エレミヤ書』となりました。同様に、イェヘズクェールの預言も、その後、聖書の『エゼキエル書』となりました。しかし、彼らの預言は、資料に相当の混乱があって、どこまでがそれぞれ自身によるものか、いまだ不明です。いずれにしても、彼らの主張したこの[個人の信仰としての宗教]という概念は、歴史的にも画期的なものです。なぜなら、それまでの宗教は、どこでも一般に国家または一族を単位とするものばかりだったからです。そして、彼らの新たな[個人の信仰としての宗教]という概念は、ユダヤ教独特の聖絶史観から、さらに[律法に従う聖なる個人の選別]という教義ともなっていきました。

 また、このイスラーエール復活の日に関して、イルメヤーフは神の選ぶ王「ダーウィイド(ダヴィデ)」についても預言しています。そして、このイルメヤーフの預言に基づいて、後に、キリスト教徒が[イエスこそこのイスラーエール復活の日のために神の選んだ王「ダーウィイド」であり、そこに「新たな契約(新約)」が結ばれる]と考えられることになりました。

 また、このころ、人々がバビロニアに連れ去られた後のパレスティナにおいて、かつてのユオーシュィイヤーフの改革(「申命記改革」)の精神、すなわち、《唯一の神》《唯一の神殿》《唯一の選民》という思想に基づきつつ、また、イェシャヤーフやイルメヤーフなどの預言者の聖絶史観を踏まえつつ、モーシェからイェフーダー南王国滅亡までの史書が編纂されました。すなわち、それは、『ヨシュア記』『士師記』『サムエル記』『列王記』の四書であり、『申命記』と共通の精神に基づいているという意味で、「申命記的史書」と呼ばれています。これらの史書においては、[ヤーウェーのイスラーエール人(とくにダーウィイド王家)への加護]と[ヤーウェーへのイスラーエール人の不義]が強調されることによって、[この国家滅亡は、ヤーウェーの無力のためではなく、むしろ、ヤーウェーの威力のためである]と説明され、[イスラーエール人がヤーウェーに帰ってこそ、ヤーウェーはイスラーエール人に約束の地を与えてくださる]と主張されます。そして、[〈帰(シュウブ)〉は、〈義(セデク)〉(律法遵守)である]として、「申命記法」の厳格な遵守を人々に要求します。

 『創世記』『出エジプト記』『レヴィ記』『民数記』『申命記』の五書は、モーシェによって記されたと伝えられ、「モーゼ五書」として聖書の中でも重視されています。そして、これに「申命記的史書」四書がが続くことになります。しかし、実際は、『申命記』と「申命記的史書」の五書がこの時代にまとめられ、その後に、前四書が「申命記的史書」から遡る形で、先述の「ヤーウェー資料(J)」や「エローヒィム資料(E)」などから後述の「祭司資料(P)」の枠組に従って作られたようです。このため、前四書には、三資料に加えて、「申命記資料(D)」も混ざっています。

 しかし、イスラエル総督ゲダルヤーフは、東の隣国の謀略によって暗殺されてしまいました。このため、イェルゥシャーレーム市の人々はバビロニア新王国の報復を恐れ、イルメヤーフが止めるにもかかわらず、イルメヤーフをも連れてエジプトに逃れます。そして、イルメヤーフは、その後、エジプトにおいて石で打ち殺されてしまった、と伝えられています。

 一方、バビロニア新王国の捕虜イスラーエール人は、帰郷は許されなかったものの、奴隷とされることもなく、意外と自由に生活することができました。五六〇年には、五九七年の第一団バビロン捕囚で連行されてきていた第十八代南王イェコニヤーフとその家族も解放され、バビロニア宮廷で生活することを許可されました。たしかに一部にはバビロン川(ユーフラテス河)のほとりで望郷の念に泣く者もいましたが、大半は、経済的にも文化的にも先進的で国際的なバビロニア新王国の繁栄を享受し満足しており、各地に離散させられたことを逆に利用して国内外に広範なネットワークを形成し、商業などで成功していきました。彼らは、離散しているとはいえ、同じ律法に従う同じ文化の民であり、異民族間よりも互いに信用して取引をすることができたのです。

 また、彼らは、都市ごとに集会の場としてシナゴーグ(会堂)を建て、律法を中心として集団祈祷や民族教育を行いました。そして、さまざまな伝承規定が確立され、法典となって厳格に遵守されることになっていきました。ここにおいては、とくに「汝らは聖くなければならない。汝らの神である私ヤーウェーは聖であるから。」ということが強調されます。そして、この聖の重視こそが、多民族国家バビロニアにあっても、イスラーエール人が自分たちの民族・文化・制度を頑強に守り通す精神となっていきました。また、彼らは、系図によってイスラーエール人の歴史を統一的に整理しようとする「祭司資料(P)」を編纂しました。これは、[ヤーウェーが、バビロニアの神々と並ぶ一民族の神などではなく、それ以上の絶対的超越神である]ことを提示することを目的とし、そのために理念的で定型的な文体に特徴があり、また、その絶対的超越神からイスラーエール人に選民として与えられた祭儀と法律の由来と規定を重視しています。

 『レヴィ記』17〜26章は、シナイ山でヤーウェーがモーシェに与えた律法としてモーシェの物語に挿入されていますが、むしろ脈絡的には独立した文書になっており、「神聖法典」と呼ばれています。これは、イスラーエール人としての生活と儀式を規定するものであり、おそらくこの捕囚期に文章としてまとめられたものでしょう。

 また、「祭司資料」としては、『創世紀』冒頭の格調高い第一天地創造神話(1:1〜2:4a)が代表的です。その他、この資料は、系図によってさまざまな伝承物語をひとつの歴史として統一しようとしており、その後の聖書の基本的構成を提供することになりました。しかし、逆に言えば、ばらばらの民族のばらばらの物語を、むりやりひとつの民族のひとつの歴史にしてしまったのであり、先述のように、まさにここにこそ、共通の神と共通の祖先を持つ「イスラーエール人」という神話が成立したとも言えるでしょう。

 五五〇年、アケメネス朝ペルシア帝国のクールシュ(キュロス)二世(?〜即位559〜529)は、王族の内紛に乗じてメディア王国(現イラン)を滅します。そして、彼は、まず小アジア半島へ侵攻し、前五四六年、リュディア王国を征服する一方、西岸のギリシア諸都市に対しては寛大に懐柔しました。そして、ギリシア人の技術力を高く評価して傭兵として雇用し、周辺に勢力を拡大していきます。ここにおいて、バビロニア新王国の捕虜イスラーエール人の間に第二イェシァヤーフが現れ、〈良き知らせ〉、すなわち、[もはやイスラーエール人の不義の罪は償われ、解放の時が訪れる]と告げます。彼によれば、[神ヤーウェーは、自分の民であるイスラーエール人が異国の民であるバビロニア人に支配されることをよしとせず、クールシュ二世を使って、自分の民であるイスラーエール人と自分の町であるイェルゥシャーレームを復興させる]とされます。この〈良き知らせ〉の思想は、[イスラーエール人とイェルゥシャーレームの繁栄こそ、神の望みであり約束である]という選民思想・選都思想ともなり、その後のユダヤ人の苦難の歴史においても、つねにメシア(救世主)待望論の根拠となっていきました。

 第二イェシャヤーフとは、『イザヤ書』40〜55章を著述した無名の預言者のことであり、その詳細が不明であるために、便宜的にこのように呼ばれています。

 

ユダヤ人によるイェルゥシャーレームの復興

 実際、アケメネス朝ペルシア王国のクールシュ二世は、前五三八年、バビロニア新王国の首都バビロン市をも征服し、捕虜イスラーエール人の帰国を勧告します。といっても、これは好意からではなく、[戦乱で荒廃してしまったカナン地方を、商売などで裕福となっていた捕虜イスラーエール人自身によって復興させよう]という政策でした。このため、この唐突な帰国勧告にむしろイスラーエール人の方が躊躇し、最初は少数の愛国者と野心家と貧窮民だけがこれに応じて帰国したようです。一方、バビロニア各地に残留した大半のイスラーエール人たちは、やがて「ディアスポラ(離散者)」と呼ばれるようになっていきました。いずれにしても、イスラーエール人たちは、イェフゥダー(ユダ)の地に住むべき民として、以後、次第に「ユダヤ人」と呼ばれるようになっていきました。

 さて、数万人の第一次ユダヤ人帰国団は、第一団バビロン捕囚でバビロニアに移住した第十八代南王イェコニヤーフの第四王子であるシェシュバッサー(セシバザル)が団長となります。そして、クールシュ二世も、バビロニア新王国がかつてイェルゥシャーレーム市の神殿や宮殿から奪った財宝を彼らに返し、彼らをイェルゥシャーレームへ送りました。前五三七年、第一次ユダヤ人帰国団は、イェルゥシャーレームに到着し、さっそくに神殿跡地に祭壇を設置して祭礼を再開します。ところが、イェルシャーレームは、けっして無人の町ではなく、アッシリア新帝国によって北王国に植民された諸国の人々が、南王国の滅亡後に移住してきており、捕囚されていったイスラーエール人に代わって神殿跡地を尊重し礼拝していました。彼らは、神殿再建計画を知って共に参加することを希望しましたが、ユダヤ人帰国団は、クールシュ二世の権威によって、これを拒絶します。このため、諸国の人々は、アケメネス朝ペルシア王国に対し、イェルゥシャーレーム市再建の危険性を訴え、工事を中断させてしまいます。この後、帰国団長は、シェシュバッサーの甥のゼルッバーベルに交代しました。

 知ってのとおり、この手の紛争は、イェルゥシャーレームにおいて、キリスト教徒とイスラム教徒、イスラム教徒とユダヤ教徒の間で、その後も繰り返されることになります。領土の喪失と奪還には、それなりの正当性はあるものの、その間にそこに居住した人々は、いわゆる「善意の第三者」であることも多く、彼らからすれば、奪還者も侵略者にほかなりません。

  前五二二年、アケメネス朝ペルシアにおいて、ダーラヤウァウシュ(ダリウス)一世が政権を奪取しました。しかし、この政治的混乱において、イェルゥシャーレームに対するペルシアの占領管理も希薄となり、この機にハッガイ(ハガイ)とゼカーヤーフ(ゼカリア)という二人の預言者は、第二代帰国団長ゼルッバーベルと祭司イェーシュウア(エシュア)に神殿再建の再開を促します。ペルシア占領管理団は、この工事の是非について中央政府に照会しましたが、記録の中からクールシュ二世のイェルゥシャーレーム再建勅令が発見され、かえってこの工事を支援することとなります。

 かつて預言者イルメヤーフが、捕囚は七十年続く、と預言していましたので、預言者のハッガイとゼカーヤーフは、南王国の滅亡した五八七年からおおよそ七十年になるいまこそ、ゼルッバーベルが王国を再興し、ヤーウェーの栄光が到来する、と考えました。しかし、ペルシアは、ユダヤの独立を許可するつもりはなく、ゼルッバーベルは危険人物としてイェルゥシャーレームから除去されてしまったようです。こうして、ともかくも、前五一五年、かつてのシェロモーの建設した神殿に対して「第二神殿」と呼ばれるイェルゥシャーレーム神殿が完成し、祭司イェーシュウアがその大祭司となりました。そして、この神殿こそが、国王を奪われてしまったユダヤ人とっての民族の象徴だったのです。

 

普遍主義と純血主義

 もともとイェルゥシャーレームは、アフリカとユーラシア大陸とを結び、地中海とインド洋とを結ぶ交易の中心地であり、「バビロン捕囚」を免れて残っていたイスラーエール人たちだけでなく、諸国の人々もすでに多く移り住んでいました。とくにユダヤ人帰国団とペルシア占領管理団によって市が再建されるにつれて、その交流は活発となっていきました。しかしながら、イェルゥシャーレームを自分たちの神聖なる都市と考え、ここで異教の外国人たちが商売を行って大金を稼ぐのを快く思わないユダヤ人も少なくありませんでした。

 もとよりペルシアは、政治に厳格で、宗教に寛大でした。このため、その占領管理下にあるイェルゥシャーレームも、政治抜きの宗教的社会が形成されていきました。ここにおいては、帰国ユダヤ人だけでなく、

 

(以下、執筆中)